今にして思うこと



もうやがて90になる父、心臓バイパス手術のあとはさすがに、
すごい老けたなあと思ったけれど
送り返した母のアルバム「受けとったよ」と話す父は
私と居るときはいつもどこか上の空で寡黙な感じだった昔とは随分違っている。
今は電話でも、帰省したときも良く喋る。

全くボケた感じもなく、免許証を返納しようかと思ってるとか。
判断が適切だ、でも、田舎は車がないと大変だから、と困っていた。
「迎えに行く」という言葉も無視して
これが最後とばかり高速道路使って新築を見に来てくれた、
県庁転勤で住んだ事のある市内見物、連れ出したとき懐かしがっていた。

電話で近況報告、少しの母との記憶回顧もう尋ねる
機会もそう残っていまい、いつも遠慮して尋ね損ねていた。
少し太っているくらいで若いと思う父。
優しい父親というのだけは間違いなかったが、酒もタバコも凄かった。
お酒に強かった、さすがに晩年はドクターストップ。
だから酒も(好きだけど弱い)タバコしない主人を選んだのかも、
父は一緒に飲むのが夢だと言ってたが。

日曜大工で(あうんの呼吸)を身につけた、釣りのお供、水溜まりで溺れる等(笑)
私にはどこか(古い人間の持つしきたりや習わしからの姉妹差別)
距離が有って冷たいイメージがあったものだったが、
今は違う、自分も人並みに一通りの挨拶は(気遣い)はできるように
なったのだ。


また、児童相談所の不祥事←(間違い)市教委
父親から虐待を受けていた子供の必死の助け舟になるであろう、
秘密の通達書(手紙)がこともあろうか父親に公開された、
その道の職員なら百人中百人が絶対にしてはいけない手紙の開示。
父親が読んだならば不愉快さから怒り、
余計に子供に辛く当たるに決まっている。

職員は稀に見る不可解な気迫と言動で迫り来る面倒な父親に辟易し、
早く職務遂行し、お役ゴメンを図ったか。
後考えられるのは生徒の立場に立った考え方ができないとか?
父親と対処にあたった市教委は本当に大人なんだろうか?
今回の件で逆上した父親によって死に至るまでになったのは明白で、
暴力が倍増したのだろうし、市教委がどれだけ
少女に手をかけることなく暴力に荷担したかわかっているのだろうか?



心配そうな顔。
キリンジの歌を歌うとだけ側に飛んできてすごいスリスリ、
ぺろぺろ肌に毛繕いは痛い、何でだろう、もう笑って歌えない。
SIRUPのループって曲も好き、ホンダのCM曲もノリが良くて良い。
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捜索



今回も実家でいろいろとあった、事象に意味があるのなら
昔からの癖のように今起こった事象を黙って観察し考察し
何を教えようとしているのか読み取って行きたいと(生きたい)と。
尊敬するまるで高僧のような哲学者のような樹木希林さんの書、
尊敬するいまは亡き支部長の教え、心で同胞と思う人たちや、
または逆に試練のように
突っ掛かって来る出来事や人たちすべての事象に意味がある
喜怒哀楽の極まった肝腎な時には必ずミャーと鳴いて
「はっ」とさせるがたいていが餌欲しさである(笑)
タイミングが猫と被るなんて。

昨日実家に帰って母親のアルバムを探したら
あまりにぞんざいな扱われようで、
なかなか見つからない
姉はそんなものの存在すら知らないと言い
父親までが家を改築したとき
どこいったかわからんようになってるとか簡単に言う
ついに管理場所に住まう姉と父に
激怒、泣いて抗議した、
母が父のためにどれだけの世話を焼いてきたか忘れたのかと。

姉など母には心配のかけ通しであったにもかかわらず、
いろいろと忘れてしまう程、話が噛み合わない
父が目に入れても痛くないほどに可愛がり甘やかし
挙げ句君臨させてしまった姉。
姉もかわいそうではあるが、、
父親は往々にして子育てを失敗させる方に加勢する。
それでも何とか一冊のアルバムを探し出して持ち帰ることができた。
姉の「早く返してよ」のことばでまた言い争いになりかける、
アルバムはなくなったも同然のそれ以前に
無いと言っていた。
「無いと思っていたが有ったんだね」と始めてみるように
しみじみと感心仕切りにアルバムを見ていたことからも
これを見る以前
アルバムになど微塵の大切さを感じていなかったのがわかった。

アルバムに写る母は事務所の事務仕事中のものだったり
ワンピース姿や、ボディコンかと思わすくらい、痩せているし
ウエストのくびれたドレスみたいな、この時代になんておしゃれな、
自分が絶対にしないファッション
母は小さい人だったが小さいというイメージがなかった、
お産の後のふくよかさの維持(笑)それに面倒見のよさや
情の深さ、行動力、正義感、社交性、コミュニケーションのうまさ、
どれをとっても私が足元にも及ばないから、父に言わせると母は父親似らしい
曲がったことが大嫌いな人だったと聞いた。
もう、ついには母の年齢を超えてしまって、しかもアルバムの母はもっと若い
私よりも年下になってしまっている。

私はどんどん母から遠退くように年を取って、母のアルバムをながめる、
もはや年下のかわいい大切な人と。

それがとても悲しい。

古風なそして現代的な

最近自分がやってると言うよりもなんらかの働きでもってやらされてる感が強くて変だ。
嫌じゃないのだけれど変な気分


まだタイトルは書かないが日本人の唯一らしい人類学分野の分厚い書物を読みはじめた。
熊本の山村の小さな村ルーツみたいなものだろうか、
でも前置きやプロローグを読んでもまだピンと来ない。
母が生まれ育った村の話。
母は今から思えば信心深い人で毎日炊きたてのご飯を
小さな(あれ、何て言うんだろ)器に水で濡らしたしゃもじで、
「てこてこ」して仏壇に備え、手伝いをしたことも有った当時ではありふれた日常。
父が出張ともなれば陰膳で鯛の尾頭付きみたいな煮魚とともにご仏前に、
としていた。

毎日晩酌に焼酎を飲む父に食事前に酒のおつまみ、
お刺身等出してからの食事で、近所の八百屋さんで
「三枚下ろしにしてください」がお使いの時のキメぜりふ、
心で一度唱えてから言う。

何より父への不満など子供らの私たちが言ったものなら途端に叱られたくらい
古風な日本の妻らしかった母。

家庭では古風でも姉さん女房の父より3才年上だったから実質は手の平で躍らされてる
みたいな母の尻に敷かれてる父、と内心では思ってはいたが
だから母と一緒の時は亭主関白風をやっていられたのだと思う。

母はその当時は珍しく車を運転していたし仕事もして参観日にはキメて来るしで
今の働くお母さん達となんら変わりがない。
私のようなおとなしめで目立たなかった幼少期はさぞや
不釣り合いな親子に写って居たことだろう。

母が亡くなったとき父は仏前で「なんで先にいってしまったとか」と泣いて叫んで
その時は父も情が深かったと思ったが、世話されるタイプの父
早い段階で再婚の話がちらほらと、やはり自分の老い先が思いやられたようだ
何より至れり尽くせりの母の亡き後一人で生きていかれる性分ではなかったから。

母との思い出


母の実家のあった小さな村、
須恵村に生まれた後家族で佐賀に移り住んで結婚する頃にはまた
須恵に戻って来ていたらしい。
(なにせ母を早く亡くしてるもので今頃父に尋ねて知ったもので)
祖母は多良木出身💦いろいろ間違えていた。
父と結婚後は須恵の実家近くに小さな家を借り住んでいた。
母が須恵に住んでいた期間は短いようだ。
だとすれば実質須恵の人である祖父は生まれた頃には
亡くなっていたからよく知らない。

思えば母は垢抜けた人だったなと、思う、
私は生まれて一年くらいをそこで暮らした。
それはそれは夜泣きから昼間だろうが朝からでも泣きまくって大変だったと、
揺すっても何しても泣き止まないという、、全く記憶無しだが。


泣き虫の自覚ならある、
泣くのが商売の赤ちゃん時代を経て物心着く頃でも
泣き虫の怖がり屋はどうしようもなく、ホトホト母の手を焼いたものだった。
怖がり、それはそれほどではなくなったけれど、
「感動して泣く」も加わって相変わらず泣き上戸
それにとんでもない笑い上戸でもある。
笑い出したら止まらない困った癖?も身についてしまったが。


それから引っ越して近くの当時は村で今では町の呼び名になった所に
引っ越し小さな家を建てた。
ここに住んでいた期間は私が15才のときに母が亡くなっ
て間もなくしてその地を離れたので、十代後半までで
熊本市内へ、父の転勤先のアパートに転がり込んだことも(一年ほど)
その後は市内暮らし、今に至る。

今思えば父の建てた家はモダンな家、結構広くコーナーに出窓が張り出していて
普通は猫がすることのようだが、私が小さい頃はよくそこに上がって
庭を眺めていたものだった。

たとえ生まれたところで嫌なことが有ったとしても故郷だけは絶対に
嫌いにならないと思う、両親が選んだ家族のはじまりの地だから。

山がみえる風景が好きだ、今も。

私は幼児の2才位からの記憶がある、父の趣味はカメラ
そのカメラで撮られたオムツ姿の写真があるが
父に気を使っていた記憶がある「ちゃんとしなきゃ」みたいな
ただオムツ姿の私が写っているだけだが、まさかの内面は想像も及ばぬ
オムツ姿の赤ちゃん。

新築祝いであろう賑わう客の様子もおぼろげに覚えている
そんな家を建ててあったことを思い出しては
自分も窓辺にカウンターを付けてもらったり、
音楽が好きだった父はオーディオセットをどっかと設え
スピーカー等もコーナーに設置、応接の、洋間なんかもある家だった。
どうも似たような家を所望しているようだ、私はカセットデッキで留まっているが。
歌うことが好きな家族、父はジャイアンのリサイタルくらい迷惑だし大抵酔っ払っている
母はすごく高い声、もう甲高過ぎるくらい
で、たまに歌う、好きな歌が、
四季の歌、あめふり(あめあめふれふれ…)、ビューティフルサンデー


クラッシックからその当時の流行のレコード、
私も家で聴くならクラッシックも良い、ジャズも好きだ。似合わないけれど。

父の枕元から聞こえる朝のラジオ番組、森山良子の歌でソロソロ起きる頃かなと
ただ音楽が好きな子供に育ったと言うだけで、何もなかった(笑)
その後母はピアノを習わせようとして大失敗、私は教室に行ったことにして黙っていた。
それが先生からのお葉書により行ってないことがばれた。
その時の母の怖かったことまさに、本物の鬼に追われる鬼ごっこ気分。

走って逃げる→母が追いかけて来る、近所のおばあちゃんちに駆け込む→留守
あきらめてまた逃げる→捕まる、母の背を思い切りつねる→ますます怒らせる
余りに往生際がわるいので庭の木に縛られそうになる

そこへ、姉登場、土下座して許しをこう
「妹を許してやって」とそう、ここまでは理想的な子育て熱心で教育的
姉も妹思いでなかなか良い育ち方だったのだ、そうしばらくは。

セーラー服は骨格を選ぶスタイル

小さい頃のトラウマ
あれは忘れられない思い出、
廊下の延長線奥に控えてる母の嫁入り道具の「鏡台」にまつわるお話。
スカート履いてワンストロークするにはもってこいの位置。

そこで恐る恐る履いて見たのはお初のセーラー服。
私的にもこのタイプのスカートは、なで肩タイプにちょうどよく似合いそうで
いかり肩ではないけれど肩パットなしでちょうど良い私には似合わないの極致だ、
と思いつつ見ていたのに後ろからの追い打ち

「○(←名前)はスカート似合わんねー」誰あろう母である。
いや、このセーラータイプが似合わないだけで普通のスカートは大丈夫なはず
心ではそう思っていたのに、まるでスカート全般が似合わないみたいな、
断然としたそしてとても残念そうな口調が何をか言わんや。



確かに毛量多く癖っ毛の私はショートヘアが定番スタイルでそれもセーラーには少し
バランスが合わない。

果たして翌日のセーラー服初日の日、下駄箱で
最近聞いたばかりの空耳アワー
「○(←苗字の呼び捨て)はスカート似合わんねー」バカ男子である、嘲笑の響き有る。
スカート嫌いにするのは誰あろう本人では無い、外野です。
一人は哀れみ、一人は嘲り。
思ったことを正直に言う必要ある?
一番気がついてる(そして傷ついてる)のは本人ですがな。
後三年もあるんだから。
プロフィール

CHAKOMOKO

Author:CHAKOMOKO
196()年生まれの
9月後半生まれ
初期の目的を見失い、うだうだ言ってるばかりの記事ですが
自分を客観視もできるし、不定期ながらなんかやめられなくなってる。







人と同居しているのは

サバ虎の
ねこ




まざーぐーす
だんだんばかに
なってゆく
に抗うべく
文章作成







日常のグダグダを
まとめ整理する
のーと

そして
まとまらないという

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