胎児の記憶

私は小学生の頃くらいまで子宮の中での胎児の記憶が有った。
もちろん言葉がないので感覚だけなのだが今どんなに頑張っても
その感覚そのものを思い出すことはできない、後天的に覚えた言葉で表現するなら
ほのかに暗いのに明るい空気もない空間なのに圧倒的安心と温かさに包まれた
感覚と表現するべきか。

私は地元の内科の病院で逆子で産まれた。
仮死状態で、父から聞いた話では母が悲しそうに「どうにかして」と言うので
バイクを飛ばし産婆(近くにいる)さんを連れてきたらしい。
産婆さんは私の足を持って逆さにして背中をバンバン?叩いたのだとか
それで「オギャー」と一声、蘇生したのだそう。


この話にはのちに不思議なことが一つあった。
その後私は小学校で
可愛いのだがおとなしい(今思うと場面緘黙?)先生の質問にさえ答えないと言う
女の子と同じクラスの同級生になった。
子供の世界なら当然のように、なぜ口をきかないのかといじめに遭い
テレビのモノマネ、トイレで水をかけられるというもの。
可愛いというやっかみ、そのほかの感情などもあったのではないかと思う。
たまたまいじめてる子の中に知り合いがいたので「いじめるのやめてあげて」
的なことを言って反感を買ってしまったけれどその後、
一生に最初で最後、金輪際恥ずかしくて言えない「友達になって」を
言ってしまった相手。
その子こそ、その産婆さんの孫であった。
電車の中で珍しく軽快に話すし、しかも敬語抜きの怒ってるような話し方をするので
そんな言い方やめたがいいんじゃない?と軽く注意したら、
私のおばあちゃんだと言うからびっくりで、その時「○○さんとこの、、、ちゃんでしょう?
仲良くしてあげてね」って私を覚えていてくれてた。
命を救ってくれた産婆さんに妙な形で初顔合わせ。

私は、その産婆さんの孫に恩返しをするため蘇生したのではと今では訝るくらい(笑)

その子はどんどん快活になってその後結婚、今付き合いはないが
恩返しの昔話を架空じゃなく思い出す不思議な話。
縁が切れたのもおばあちゃんが亡くなった頃のような気がするし。

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避けたくても

朝、絵本の話が出ていて「ママがおばけになっちゃった」
っていう絵本
この内容には自分も覚えがある、

小さいころお母さんが死んじゃったらどうしようって
母のちょっとした、(ただの風邪)体の不調を大げさな病気に結び付けて
不安になって、泣いて、みたいな。

すごくお手伝いする、良い子になってしまう(笑)
普段絶対しないような事をして、ついうっかり母を喜ばしたり。

でも実際、人間の母親はいつまでもいてくれないと
不都合が多い、何かあった時、おいそれとは実家に帰れないとか
相談もできないし、一緒にいろんなとこもいけない。

何より自分の成長を見せるという張合いもなくす。
大人になってもこんな体たらく
あんたはしっかりしてるから心配してないなんて言われたって
寂しいことです。

しっかりなんてしてないし。

ただ、お化けが怖くなくなるって言うのはある。
お化けでもいいからとか、
どこか、、すぐそばにいるような、より身近になったようなそんな感覚も
あるけれど、絵本のようにあんなに小さかったら
辛すぎる、
でも本当にテレビの人が言ったように
トラウマになるくらいな子供の頃の経験が
悪いことをしない、良いほうに導くこともあるのだろうとは思う。

下手したらマイナスだから

いつかは娘の置かれた仕事場での実情を書きたいと思う。

私の母は一を言って(会話)一返ってくる人ではなく
二も三も与えられる人だったように思う。

私など一を言われ一を返しおしまいじゃなく。
一に対しての一が二にも三にもなる人。
そういう人がいる。
そういえば父にもそういうところが

父なんて与えなくても(会話じゃなく存在?》、
与えられる人という感じすらする。
なんか、人にかわいがられる人っているよ。

こういう両親に育ったのに(笑)
ちやほや時代は歳とるたびに減ってくだけの。

両親は二人とも六人兄弟の末っ子で
末っ子同士の夫婦だった、
でも母は周辺に対して面倒見が良い人だったなぁ

それに比べて頼んない自分

私にとって母との生活は短い間だったが
短くても濃くて強い印象を残してくれた。

母は私にとって最大の安心を与える人であり、正義の味方であった。

小学校で低学年にもかかわらずベテラン先生の女先生が担任になってしまった時。
授業時間が恐ろしくて仕方なかった、指名されて解く算数
黒板の前で先生がいちいち怒鳴るので
頭が真っ白になって適当な数字を書き殴っては
ますます怒られたという記憶。
全生徒を恐怖のずんどこに陥れるという、少し小太りのメガネの先生だった。
あの口調、あの威厳、どう考えても高学年を受け持つべきだ。
休み時間になると怖さのあまり、
終業チャイムが鳴るのを待ち遠しく待ち、
そそくさと校庭に出て友人と恐怖の感想の時間に充てていた。

学校に行くのが憂鬱だった。憂鬱だった日はこの日ばかりではない
集団予防接種の日もしかり(体育は得意だったが)水泳のある日、
給食残すなの時間、何かしらの発表の日も
当の私も母も、なだめる、奮起するはで大変だ。

小学二年生
そういうことは働いている母親にいちいち報告する
私ではなかったがこの時ばかりは母に話したのだろう

小2の私の誕生日会に先生が来てる。
「なんて最悪な誕生日なんだ」と思ったのは当の本人の私ばかりではない
呼ばれた友人も同じ思いだったと思う。
誕生会のメニューは面白いよ、私の好きなものだし、
それを網羅するわけにはいかないから、ピックアップ
私の好きなお赤飯、紅白なます、その中にその二つがあったのだけははっきりと覚えてる。
なんて渋い、、

しかしこの日を境に先生の態度は一変したのだ
接するときはにこやかになり冗談を言い何かと気遣われるようになったし
とにもかくにも怖い存在ではなくなったのだ。
先生の町の祭りに呼ばれたり。

卒業時期、クラスの委員長は手紙をくれたけど
あなたは書いてくれないのかといわれたが、
そんな立場にいるなんて
想像もしなかった。

母はいじめられてるといえば、必ず心配して何かしら行動を取ってくれた
そのたび、私にとっての正義の味方は
社交術に長けた、しし座の頼りになる母だった。

この年になっても母の存在は頼もしいものだったと思い起こすし
自分は真似できないことだと、今更ながら母に追いついていない自分に
情けなくなるのだ。

働くお母さん

昔共働きでかぎっ子だった私の憧れ、
家に帰ったら
額の汗を見て「汗かいたね、シャワーでも浴びたら?」ってお母さんが声をかける。
妄想
こう書かれた小説の一節に非常にあこがれたものだった。
「おかえり」の声にどれほどあこがれたものか。
父の再婚相手は専業主婦、ほんの一時期を一緒に暮らし家へ帰れば親的存在がいるを経験、
血縁で無くても家への暖かさ安心感を感じた、ほんの一時期一緒に暮らした時期があった。
今の時代は、そんなお母さんの役割に微塵の価値も見出してない、
働く女性を男性でさえ高評価、そして大事な稼ぎ手。


当時、自分はと言えばわが子誕生から仕事を辞め(仕事は嫌いではないが子育てとの両立はムリ)
自分の満たされなかった願望を子に
与えては私の子育てはどう?(みたいな)と、
どんなにわが幼少の一人の不安と孤独の昔を語ったところで
ぽっかりの空洞を埋められなかったさみしさを子への代賞行動で埋めようったって
それは所詮代賞でしかない。
子供は逆に最初から「それ」は満たされてしまってる。

そうして今度は子供自身が満たされなかったことを実践するのだ。
今後の子供の生き方が親への評価だろうか、項目が違うから恐怖。
働くことは、女性だって同じ、野心が満たされるのだ。
より多くの人の役に立ち(賞賛を浴びたい)たいのだから。
その前に生活の為の金銭も。
そうやって、いつの間にか性別も取っ払われてくるのだろう。
働くことを夫婦で許しながら女性の役割も家で果たそうとしたら
普通に考えるなら立場は女性が上になる

子育てはそんなに簡単なものじゃない。
「親は無くとも子は育つ」は慰めであって正論とは思わない。
今の様なやまいだれの日本、「見守る目」失くして子が育つものか。

それでも歴史は繰り返してしまう。
プロフィール

CHAKOMOKO

Author:CHAKOMOKO
196()年生まれの
9月後半生まれ
本来初期の目的を見失い、うだうだ言ってるばかりの記事ですが
自分を客観視もできるし、不定期ながらなんかやめられなくなってる。







人と同居しているのは

サバ虎の
ねこ
ちわわという種の
いぬ




まざーぐーす
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