親がしてくれていたこと


なぜかまた纏まってる記事、ピックアップが何故それなのかというのと
前のblog名にこだわるクローラー?
子供時代、人生お初なことは不思議に思うことばかりで
日々積み重ねていたようだったけれど
ある程度人生に馴れが生じるとそんな疑問も少なくなってきて、
というか考えても答が出ないから。
幼稚園とかで生まれて始めてにすることがなぜか出来てしまうとか、
方法(動作)を知ってるとか不思議だったのだけれど
親は、たいていのことは「大人になれば解る」だったが
一番衝撃受けた真実みたいなものを私は抱え切れずに親に尋ねた。
(私が)あんまりな時には、親は相当に返答に頑張った(笑)

まず女の子であるということの証明である月からの贈り物の衝撃(笑)
これを聞いたときは人生の先行きに少なからず疑心暗鬼になってしまった。
何故って、まだ大人たちは衝撃的事実を隠していないかと思って。

結局のところそれがお産だったから。洒落にならない。

日本はフランスみたいに無痛分娩が主流ではないから、
これは聞いた衝撃を緩和するための常套句「案ずるより産むが易し」だなんて
(少なくとも私にとって)何の慰めにもなってない←結果論、、
多いに騙された感のある
女性の営みと思った。
たいていの人は周囲の手厚い擁護で確かに案ずるより産むが易しは
正解なのだろうとはおもう、
お産、
あれは励まし等が絶大な応援になるから。

この二段階の衝撃の大きさ足るや男性と比べてもどれだけの差がある?
男性なんて、何か苦しみみたいのあるの?
愉しいばかりの、身体的悩みが殆どない(笑)だから馬鹿げた犯罪ばかり起こす。

若いときの衝撃がこの二つ
最近まだあるんじゃないでしょうね、と訝しんでいる(笑)

お産は母親を亡くしてからのことだったので
当日の不安を取り除く力にはならなかったけれど
病気に臆病過ぎた小学生のころ母に取り除いてもらった不安は数知れず。
すぐ調子が悪いととんでもない重病な病名で思い悩む私、病死が怖かった。
今思えばお笑い草の。調べたらヒポコンデリーとか
母は、きっぱり否定するように「有り得ない」のだと、言ったから。
母独自の信念の思いがそう言わせるのだろう、それがどの病に対してもなのだから。
しかも未来に渡って、ないと言う理由も述べつつ、信じてしまう子供信者(笑)
私を救う「有り得ない」という言葉。たとえ今ではその言葉が眉唾ものでも。
その当時の(特に)母親は子にとって、絶対だから。
不安なんて木っ端みじんになった。
今では思う、人はなんらかの病気でもって死を迎えるから
自然なんだと。
そしておかげで素人ながらも医学好きに。
医学書読んではお腹が痛くなる(笑)

母方の祖母の記憶と

映画「せか猫」観た、小説中途読みで映画が先行してしまった。
これも、小説と映画じゃ感想が違ってきそう。


今日は祖母、おばあちゃんの(母方)話を書いてみようと思う。
祖母は寡黙な静かな人でとても穏やかというイメージ
私が5才くらいのとき亡くなったから断片的なイメージしかない、
声がどうだったとか覚えてないし、祖母といる時の母は
いつもと違う
祖母と同じように静かで穏やかな人のように見えた。
祖母は背が低い人だった。うちの場合子孫みんなに遺伝(笑)
顔はというと目の当たりの彫りの深い感じの顔で
数少ない写真で確認、ああ、そうこんな顔。

母はとても色の白い人だった、他で見ないような白さ(笑)
子供のころお風呂なんかで見ると
シミすらなく
私と違って手なんかこれまた白くふっくら紅葉のようでうつくしかった。
私なんて父のゴツくしわしわな手をしっかり頂きまして(笑)

祖母は子供を6人産んで最後の最後に
待望の女の子の母を産んだ。
それはそれは可愛がったそうで、
母の婚期が遅れたくらいだと聞いた。
何度か母の車で出かけた
人吉市(母がよく連れて行った)のうちから車で45分位の
レストランかな
小洒落たデザートを食べたのをおぼえてる。
以前はその時の写真が実家の仏壇に飾ってあったが、
今はどうなったのだろう。

そういう楽しくお出かけするような日常が
ずっと続くと思っていた矢先、
祖母は入院した。
一度だけお見舞いに行ってお小遣といって千円札を私達に(姉)渡し。
祖母がお札を二人に分ける為に二枚に破いたような記憶がある。
後から思えばそれは死期が近い人のする
朦朧とした行為なのかなと。
「ビックリしたね」と姉と話したのも
もうろうと覚えている。

その後、しばらくして祖母は亡くなった、
肺の病気と聞かされた。
「おばあちゃんが亡くなったからお通夜で遅くなる」と聞いたときも
母は普通に見えた。、お葬式のときもそうだ涙を見ただろうか。

そういえば母は人や動物の生き死にに
感情を出さない人だった気がする。
ひとたび壊れたら、収拾がつかなくなる
という思いがあったのでは、と思う。

そう思うのは
母が子供のころ可愛がっていた犬が死んでいて、、
現場を見つけたとき
それから一切自ら犬を飼うことをしなかったと話してたように
父の計らいでうちに犬が来たときも飼うことに対して何も言わず、
でも一切を私の世話として任せ
寒い冬は餌を(味噌スープぶっかけご飯)
そのまま持っていこうとした私の手を止め、
コンロで人肌に温めさせた母。
見てないようでいつも静かな愛情を注いで見ていたのだと思う。
すべての世話をする私よりも
ジョンは母に絶大なる信頼を寄せていたし
母が亡くなったときも遠吠えをし、吐き、体調を崩していて
「犬にもわかるのね、、、」と母の友達に言わせていた程で

でも、いつか私が死んだとき母が迎えに来るとは
どうしても思えない、なんでかなぁ?
だからいつか逝く時も私は期待してはいないけど。

今度実家に帰ったら写真をいくつか持ち帰りたい。
一枚も持っていないから、
大変な泣き虫で大変手を焼く娘が写真を持ちたいとな。
出世したのだろうか?

胎児の記憶

小学生低学年くらいまで子宮の中での胎児の記憶が有った。
もちろん言葉がないので感覚だけなのだが
今どんなに頑張ってもその頃感じていた
その感覚そのものを思い出すことはできない。
ああこれは、、、この感じは、、、と、脳内が心底懐かしがる感じ。
後天的に覚えた言葉で表現するなら
ほの暗いはずなのに明るいと感じる、
空気もない空間なのに(今思えば)
丸まって、圧倒的な安心と温かさに包まれた感覚
と表現するべきか←これらを一瞬でかんじてるのだが。

私は地元の内科の病院で逆子で産まれた。
羊水に溺れた仮死状態で、父から聞いた話では
母が悲痛に「どうにかして」と言うのもあり急きょ
バイクを飛ばし産婆(近くに住む)さんを連れてきたらしい。
産婆さんは私の足を持って逆さにして背中をバンバン?叩いたのだとか
それで「オギャー」と一声(笑)、蘇生したのだそう。


この話にはのちに不思議なことが一つあった。
その後私は小学校にあがり
かわいい顔立ちでかなりおとなしい
先生の質問にさえ答えないと言う
女の子と同じクラスになった。
子供の世界なら当然のように、なぜ口をきかないのかといじめに遭い
その頃のテレビのモノマネ、トイレで水をかけられるというもの。
可愛いというやっかみとかそのほかの感情とかで。
たまたまいじめてる子の中に以前仲の良かった子がいて「いじめはやめなよ」
みたいなことを言って反感を買ってしまったけれどその後、
金輪際恥ずかしくて言えない「友達になって」を
言ってしまった子で、普通はわざわざ言わないでしょう。
でも、おとなしいから「申請」するしかないものですから。
一緒にいるところをみてキキララみたいとか言われたこともあったが
はて、どっちがキキでしょう?

後で知るのは、その子こそ、産婆さんの孫で。
仲良くなってずいぶんたってから電車の中で珍しく軽快(早口)に話す、
しかも敬語抜きの怒ってるような話し方をしているので
そんな言い方目上の人にやめたがいいんじゃない?と注意したら、
私のおばあちゃんだと言うからびっくりで、
驚いたように「○○さんとこの、、、さん?
仲良くしてあげてね」って私を覚えていて。
どうやら命を救ってくれた産婆さんに妙な形で初顔合わせ、
ただ、軽く言い合いになる前に早く紹介してほしかった。

私は、その産婆さんの孫に恩返しをするため
蘇生(させられた)したのではと今では訝るくらい(笑)

その子はどんどん快活(意外と勝ち気な性格)になって驚き(笑)
その後結婚、
今付き合いはないが
恩返しの昔話を架空じゃなく現実に、を思い出す不思議な話で。
20代になった頃に縁が切れたからちゃんと役目を果たしたみたい(笑)

差別はこんなに細かく世に蔓延してるのに

小さい頃を思うと何でこんな目にと言うくらい
母を亡くしてから本当に苦労した。

田舎の古い慣習と日本の男女差や年功序列、それでなくても長女次女で
差をつけられ、冷遇され、小さい頃は「何でお姉ちゃんばかりかわいがる」
直訴したこともあったくらいそれでも
父親は上を上として立てるがため、差をつけることを止めることはなかった。
母が父の出世を願って毎夜のような宴会の席でも酔っ払いの
長女崇拝、妹よりもきれいだのなんだの、小さい頃は確かに姉はきれいだった。
清純派って感じの。
比べられてはたまらない、これで酔っ払いが嫌いになり。
処世術に傾倒する人生がここから始まった感がある、
「悔しさ」これは
あまり感じる自分ではなかったのに身につけるべくして身につけさせられたので
それは逆に今後の生き方に影響を与えた逆境の功とでも言うべきか。

それは日本の行事、お年玉から、成人式の着物、女でも先に生まれたと、長男扱いで優遇
学校への忘れ物の届けること(弁当)私ときたらお弁当の時には母親を亡くしており
届くどころか作らねばならぬ立場だった。

母親はこんなことはしなかった、
子育ての時誰でも思う二度目の轍を踏まぬよう私の時はより一層厳しかったが
逆に厳しさから母親の優しさを感じた、戒めは自分が陥りそうな文言ばかり。
父は一見優しい感じだが父に母親ほどの積極的な情を感じたことはなかった。

思い出として取っておいたものは全部黙って捨てられたし、
今でも子供の扱いに対して間違っていたとは思っていないようだし
(俺は古いんだ、と公言して憚らず)

ただし、私の時は子育てで差別するそれは極力避けたから
子の精神面で助かった部分も多かろうが
その後の弊害も少なからずあったのは否めない。
親の私が考えて先走りばかりが過ぎて、
「思いを押し付けるだけで考えさせること」を疎かにしたような子育てだった
「自分の時のようなことはしない」これに尽きていたような、
邁進してしまっていた。

桜を思いやるように、頼む

小さい頃はどの子も同じだろうが私も御多分に洩れず「かわいいかわいい」と育ち。

保育園時期は自分という一個人の中で小規模ながら第一次モテ期であった。
しかしながらどんなに静かに猫かぶっていようとも
ついぞ、おしとやかと言われたことは一度もなかったと、思う。

小学校を皮切りに子供から大人への成長の変遷をたどる頃
一時期、同じ男子という生物から自信を奪われた、
また、大人の扱いも容赦がない、姉との比較でますます自信をなくした。

過去のかわいいの時期は
夢、幻か

過去の栄光として過ごす。かわいいの日々よ。


長い学生の時期を不遇に育ち、少々卑屈さも加わって来て
「どないしてくれるねん」
かわいいから、かわいそうへの移行期。

何故だろう、、多分自分と向き合い自分のコンプレックスにも精通してきて
どう欠点をカバーするかにも慣れてきた二十前後の頃
弱小ながらもファンクラブ結成(笑)
また起死回生のモテ期の再来。

なしてこんなに扱いをコロコロと変えるのだろう同じ男子という生き物は。

そうして、またやってくる
更け(老け)行く秋の夜ー旅のそーらーのーわーびしき思いに一人悩むー

もう、扱いなんぞ、どーでもいい時期になっては来たものの。



プロフィール

CHAKOMOKO

Author:CHAKOMOKO
9月後半生まれ
初期の目的を見失い、うだうだ言ってるばかりの記事ですが
自分を客観視もできるし、不定期ながらなんかやめられなくなってる。







人と同居しているのは

サバ虎の
ねこ




まざーぐーす
だんだんばかに
なってゆく
に抗うべく
文章作成







日常のグダグダを
まとめ整理する
のーと

そして
まとまらないという

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