母との思い出と検証


母の実家のあった小さな村、
母は須恵村に生まれた後、家族で数年間佐賀に移り住んだ経緯も
結婚する頃にはまた須恵に戻って来ていたらしい。
(なにせ母を早く亡くしてるもので今頃父に尋ねている始末で)
祖母は多良木出身!いろいろ間違えていた。
父母は結婚後須恵の実家近くに小さな家を借り住んでいて
私は生まれて一年で須江を出る。

幼児期夜泣きから昼間だろうが朝からでも泣きまくって大変だったと、
揺すっても何しても泣き止まないという子で、、全く記憶無し(笑)


物心着いてからの泣き虫の自覚ならある、
泣くのが商売の赤ちゃん時代
泣き虫の怖がり屋はどうしようもなく、
ホトホト母の手を焼いたものだったらしい。
怖がり、それは今はそれほどではなくなったけれど、
「感動して泣く」も加わって相変わらず泣き上戸で
それにとんでもない笑い上戸でもある。
笑い出したら止まらない困った癖?も身についてしまって。。

後に同じ町内になる当時(村)に引っ越し小さな家を建てた。
15才のときに母が亡くなり間もなくしてその地を離れたので、
十代半ばをちょい過ぎた辺りで熊本市内へ、
父の転勤先のアパートに転がり込んだことも(一年ほど)
その後は市内在住、今に至る。

今思えば父の建てた家はモダンな家、結構広くコーナーに出窓が張り出していて
普通は猫がすることのようだが、私が小さい頃はよくそこに上がって
庭を眺めていたものだった。

生まれたところで嫌なことが有ったとしても故郷だけは
嫌いにならない、両親が選んだ家族のはじまりの地だから。
山がみえる風景が好き、今も。

どうも私は2才位からの記憶があるらしく、父の趣味はカメラ
そのカメラで撮られたオムツ姿の写真があるが
父に気を使っていた記憶がある「ちゃんとしなきゃ」(笑)みたいな
ただオムツ姿の私が写っているだけだが、写真だけでは想像も及ばぬ
オムツ姿の赤ちゃんの思考。

新築祝いであろう賑わう客の様子もおぼろげに覚えている。
記念の植樹も
母がとうもろこしの種をあらぬところに育てようと(畑じゃない)(笑)
そんな家を建ててあったことを思い出しては
自分も窓辺にカウンターを付けてもらったり、
音楽が好きだった父はオーディオセットをどっかと設え
スピーカー等もコーナーに設置、応接の、洋間なんかもある家だった。
どうも似たような家を所望しているようで、
私はカセットデッキで留まっているが、
今はテレビが進化したから良い音で聴ける。
歌うことが好きな家族、父は自作の替え歌をジャイアンのリサイタルばりに
迷惑だし大抵酔っ払っている(笑)
母はすごく高い声、もう甲高過ぎるくらいで泣いてるみたいな高い声。
たまに歌ってた、好きな歌が、
四季の歌、あめふり(あめあめふれふれ…)、ビューティフルサンデー
母らしい選曲。

クラッシックからその当時の流行のレコード、
私も家で聴くならクラッシックも良い、ジャズも好きだ何故か落ち着く。
似合わないけれど。

父の枕元から聞こえる朝のラジオ番組、森山良子の歌でソロソロ起きる頃かなと
ただ音楽が好きな子供に育ったと言うだけで、何もなかった(笑)
その後、母はピアノを習わせようとして大失敗、
私は教室に行ったことにして黙っていたから。
それが先生からのお葉書により行ってないことがばれて。
その時の母の怖かったこと
まさに、本物の鬼に追われる鬼ごっこ気分。

走って逃げる→母が追いかけて来る、近所のおばあちゃんちに駆け込む→留守
引き返してまた逃げる→捕まる、母の背を思い切りつねる→ますます怒らせる
余りに往生際がわるいので庭の木に縛られそうになる。

そこへ、姉が登場、土下座して許しをこう。
「妹を許してやって」と
そう、ここまでは理想的な子育て、熱心で教育的
姉も妹思いでなかなか良い育ち方だったのだ、そう、しばらくは。
プロフィール

CHAKOMOKO

Author:CHAKOMOKO
9月後半生まれ
初期の目的を見失い、うだうだ言ってるばかりの記事ですが
自分を客観視もできるし、不定期ながらなんかやめられなくなってる。







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