日本の村、人類学者その(1)

「忘れられた人類学者」読了、
「須恵村の女たち」この2冊の本の感想は長くなりそうなので何回かにわけて書こうと思う。
また、書き直しも有り。

まさかこの本で涙するとは。
これ以降を、私は専門的知識に明るくはないのでほとんど専門的用語抜きの
読書感想文的な軽い感じで感想を書いていこうと思う。

エンブリー夫妻の執筆による人類学はもしかして
アメリカの戦争、戦略に利用された人類学者なのではないかと感想を持った。
なぜなら須恵村訪問の1935年から1年間調査、その後日本はアメリカと対戦、
この日本一、小さな村、須恵村を詳細に調べたことが日本人を知る上で
とても役に立ったわけだから。
その点は「菊と刀」著者であるルース・ベネディクトの書いた
(日本に訪問すらしたことのない内容のため偏見も多々
戦時中のプロパガンダとして使用)本の内容と相反することからエンブリー夫妻が
書いた「須恵村」がいかに偏見のない愛情と優しさに満ちた著作であったかが伺える。

その後ジョン・エンブリーは42歳という若さで交通事故で亡くなるまで
須恵村の真実を誤解なきようにとアメリカの政府に訴えた経緯も。
エラも何度か須恵村を訪れ1986年にも再訪。
父の話によると母も若い頃に会ったことがあるようで、
そういえば昔、写真裏に慣れた字でDear○子と書いた母の写る写真が有ったが
あれこそ夫妻のどちらかに撮ってもらった写真では?と、今になって思う。
父も訝しがっていたが(笑)

人類学者エンブリー夫妻、ジョンとエラ(エラは日本育ち)は旧ソ連に生まれ
日本語が堪能、方言である球磨弁も少しずつ学ぶ(笑)渡米しジョンと出会う。
エンブリー夫妻はクレアという名前の女児も共なって訪問。
後、しらみ事件(笑)で別々になるが、、後に後悔していた。
(エラは須恵村で当時アメリカ人よりも敵がい心を抱くソ連生まれの事実を
村人からの聞き取りを円滑に行うため村民に話してなかった)

なんと夫妻の村の中に溶け込んだものか、
まるで潜入リポート隠しマイクを仕掛けたか←もちろんそうではなく
親密になることで得られた情報、とにかく恥ずかしいくらいに詳細な情報。
村の冠婚葬祭的な行事や寄付などその当時結構な大金を使って
取り入るという手練手管も(笑)
私の最初の感想としては、やり過ぎ感も否めずな印象で多少不服な感じで読み進めていた。

でも、より詳細な調査となれば生の村民の実態を掴むわけなので
それはお互いに承知の上だったと思う。
そこは良しとして自分を納得させ(笑)
なにより夫妻の人柄のよさが村民のプライバシーを解いたのだと思う。
エラ(著書)まとめの「須恵村の女たち」最初はどぎついし、きわどい内容にも辟易した(笑)
田舎独特のその当時どこの村も多かれ少なかれ
未開の村という時代性から来る下品さも、赤裸々に書かれ。
当然その当時そのような下品に思える踊り等に少なからず白眼視する村民や、
教師や知識人達も「ちゃんと存在」居たことは断っておかねばなりません。

いや、日本の神話的(宗教的)な踊りは皆多少なりとも
エロチシズムな表現を伴っておりそれほど奇異では無かったのだろうが
なにせ異邦人から見た日本の風習はよりミステリアスに見えたのだろうと思う。

それで思い出すのが十代の時観た映画「インドへの道」
映画の内容をとてつもなく簡単に要約するとこうだ、
イギリスから来た女性がインドの石像(全てがエロチック)を観て
幻覚→妄想→事件→和解(笑)へと発展する内容
(当時私は女性が何に驚愕してるのかわからなかった)
性の捕らえかたが違っていてそのような営みが
普段、性が神秘だとか自然なことと感じることから一脱していて
次々に現れるあからさまな石像の群れに圧倒され、
余りに赤裸々過ぎてショックを受けたのだろうか。
きっとカルチャーショックを受けたのだなという(笑)


なので(笑)須恵村の踊り等は
日本の途上時代ということもあって「カルチャーショック」で
「下品」なだけに滑稽さも伴い、
すこしもいやらしいとは思わない、個人的に。
だから今は秘密裏になりすぎて性の問題を避けまくるから
性的な行為を曲解するものが多い、
ここでは子供のころから自然と性教育がなされていた格好。
この部分も大人の偏見で
オープンにしたほうが(現代的にアレンジし直す、、専門的に)
あっけらかんとした性への免疫が
できたはずだったのだ。←下品はいけません(笑)
ジョンは後に女性のヒステリーとも言い表していた、
確かに性的弱者に変わり無かったあの頃
不満感をヒステリックに発散していたという見方も、わからないではない。

須恵村も同じく(浄土真宗が多数)信仰心篤く
宗教的意味合いの祭り等も年中行われ、寄り合い
その際の贈答、冠婚葬祭もしかり
(何でも良い、焼酎でも、なにもない場合、マッチとか形だけの紙とか(笑))
とにかく宗教的行事が多くて驚く。

しかも分厚い書物の上、方言が満載で、(私でもわからない)
部落の名前に人の名前も続々出てくるので(覚えなくてはいけないのかと)
そこで生まれた(1才まで)私でさえ大混乱、読み辛いの極みだった。
母は須恵村出身だが一時期佐賀に移り住んだ時期があって
まあ二ヵ国育ちと言うところか(笑)
なにせ、須恵村が特殊過ぎて驚くのなんの、まるで日本ではないみたいだから(笑)
当のエンブリー夫妻が日本のどの都会より自由奔放と言い表すくらいの。
だから須恵村は平均的な日本を現していない。

さて、なにから話したら良いものか
村の良いところ、一度心を許せばともかく親切という人々の集まり、
「寄り合い」は日常だし女性同士の会話は明け透けで
しかし、思いやりで陰口をきくに留まるところなど現代と余り変わらない。

金銭的な困りごとが発生すると「講」(たくさんの名目がある)が行われ
個人銀行?的な助け合いがある。
後に、戦後のアメリカによるGHQ制裁で
須恵村の良いところがほとんどが消え去る運命に。
お隣りへの引越先でも講ぎんなるものがあったのを思い出す。
呼ばれた家に出資金を持ち寄り当番制でもらうという。
これも「賭博扱い」でずいぶんが消滅。
切実な当時の助け合いだったのに。
災害、洪水等で(簡易な)橋が流されれば誰が呼びかけるでなく人が集まり修繕し、
子供が居なくなったときでも同じでリーダーがいてどうこう、
ではなく適材適所自然派生的にことがなされる、自主的なところが現代と違う点。
協同(はじあい)と呼ばれる助け合い、今で言う隣保組、自治会。
集まりの締めは必ず酒宴、女性のキセル(今のタバコ)、
飲酒、独特な隠微で下品と称される踊り(笑)、お喋り
こういう席でその時代、男女が同等に騒げるという風土にまず驚く。
そこには女性の過酷な農作業、重労働、妊婦であろうと
重い丸太を担いで橋を何往復もすると言う
男女差のない労働条件をこなすがため男に有無を言わさぬということもあるのだろうが
重労働の妊娠期間や胎児の育成、母体の健康状態にはかなりの負担が有っても
時代性もあり普通に行われていたよう。
やはりそこまでの闊達さがなければ飲めや歌えの同じ立場での酒宴は実現し得なかったような。
そこには当時の、勝ち取った立場、
封建社会の耐え忍ぶ女の(お産の時は別として)悲惨さがなく明るい。
プロフィール

CHAKOMOKO

Author:CHAKOMOKO
9月後半生まれ
初期の目的を見失い、うだうだ言ってるばかりの記事ですが
自分を客観視もできるし、不定期ながらなんかやめられなくなってる。







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